+trek storys #1

​ラウリ・シルヴァの誘惑

Enchanting World of "Epiphytic" Laurel Forest.

Distylium racemosum

イスノキ王と呼んでいる、集落近くに残された水源林のまん中に立つイスノキの巨木。

虫こぶだらけの葉をつけたひねこびた低木は、都会の公園の周辺植栽などでも見かけるが、屋久島の照葉樹林では堂々たる大木になり、カシやシイなどとともに森の天井を形作る主要なメンバーである。

関東より西の平野部に住む日本人であれば、たぶんもっとも身近で誰もがよく知っている森である『照葉樹林』。現在、自然の山には古いものはあまり残っておらず、どちらかというと社寺林や公園などでおなじみ。伊勢神宮や明治神宮にあるような大きな森から、ビルの谷間に残されたこじんまりとした杜まで、そのすがたはいろいろ。陽を照り返して年中青々としているが、中に入ると、からりと晴れた冬の日でも薄暗く、夏のうだるような蝉しぐれの中でもひんやり涼しい。

そんな森、きっと知っているでしょう?

かつては西南日本からヒマラヤのふもとまで東アジアを覆っていたという照葉樹林。温暖な低地の森であることが多いゆえに、歴史時代のはじまる前から人間活動とまともに競合し、現在まとまった面積で残っている場所は、アジアにもほかの大陸にも、ほとんどないという。

いまや、原生林の代名詞ともなっている屋久島のような場所でも、その運命はさほど変わらず、ほとんどが宅地や畑、薪炭、植林地となり、しまいにはタブもシイもマテバもナナフシもみんな一緒くたにすり潰されて都会のトイレに流れていってしまったのか、原生的な面影を残す森は、植林地や伐採後に芽生えた萌芽林にはさまれた谷川沿いなどに細々と生きながらえるものばかりとなってしまった。

山菜、キノコ、鮭やマスなど季節ごとの糧のみならず、透きとおるような新緑や、燃えるような紅葉など、人々に様々な恵みをもたらしてきた北の森とちがい、そのままではとっつきにくい照葉樹林はあまり好かれなかったと言われる。

森に立ち入ればすぐに感じるが、年中葉の繁っている照葉樹林は、その名とはうらはらにいつも暗い。山がキラキラと輝くのはそれだけ光をはね返すからだ。森の中にいると春も冬もなく、間違い探しのような小さな変化はあるものの、ブナやモミジの夏緑樹林のような、誰もが心を動かされるダイナミックな季節ごとの変容にはとぼしい。

冬なお鬱蒼とし、夏輪をかけて鬱蒼とする。

それでも古い森に入り、大きなイスノキやウラジロガシを見上げ、枝を覆いつくす隠花植物たちの奇怪さに心を奪われ、叢立つ腐生キノコの気味わるさにゾクゾクしていると、感じることがいろいろある。

都市文明が成熟した現代世界における、多様性のレフュージア。

ほとんど無くなってしまったことよりも、微かだがまだ残っていることに意味がある。

星野道夫はエスキモーの古老が亡くなるたびに、図書館が一つ焼け落ちるようなものだ、と嘆いたが、ここには古代アレクサンドリアにあったというような図書館がいったい何棟聳えているのだろう。膨大すぎてどの書架からめぐるか、どの本を手にとったらいいかさえよくわからない。

現実といえば、かがんでじーっと地面を見ているうちに這い上ってくるヒルをつまむのに気を取られ、ゆっくり思索をめぐらせるようなところではないのだが。

[Hoya carnosa] 照葉樹林に夏が来たことを知らせる、オモチャのようなサクラランの花。アサギマダラの大好物らしく、集まった幼虫たちにむしゃむしゃ食べられているものも。

梅雨を迎え、木によっててんでバラバラな、してもしなくてもほとんど替わり映えのしない衣替えがひと段落する頃。

濛々と湿気を纏い、立っているだけで汗が吹き出す森にいるのはより不快になったが、よく見れば頭上の空中庭園にはちいさなランたちが咲き始め、鞠のようなホヤの花があちこちぶらぶら垂れている。

そんな些細な変化を見つけるのが楽しくて、また名ばかりの輝く森の底に潜りこんでしまう。

 

秘密のまちがい探しのつづきをしに。

※屋久島では照葉樹林は海岸付近から分布し、標高千メートルくらいにかけヤクスギ帯に移行してゆくが、古い森は数すくなく​、高度成長期の伐採以後50〜60年生ほどの森が各所で育っている。現在も比較的古い森がまとまった面積で残っている代表的な場所が、もののけの森で知られる白谷雲水峡である。

Old Laurel Forest in North,Yakushima

[LAURISILVA]

(月桂樹の葉のように)”輝ける森”という意味のポルトガル語。日本語の『照葉樹林』は直訳。ヨーロッパの照葉樹林は、有史以前に大陸氷床の前進により絶滅したと言われるが、大西洋に浮かぶマデイラ島などにその語源となった森が今も遺るという。

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2020 ULTRAMARINE